月照の像&墓(史跡)(鹿児島市南林寺)[2006年09月05日(火)]

月照の像と墓
鹿児島県鹿児島市南林寺町23幕末の勤王僧
西郷隆盛の命の恩人
1813-1858
幕末期の尊皇攘夷派の僧侶
名:宗久、忍介、忍鎧、久丸
西郷隆盛の有名な言葉「敬天愛人」も月照との出会いがあったからとか。。

月照の像
南州寺には、西郷隆盛の命の恩人ともいうべき月照上人の墓と像があります。

月照(げっしょう)
革新的な上人
1813年(文化10年)− 1858年12月20日(安政5年11月16日(享年46)
生い立ち
1813年、大坂の町医者の長男として生まれ、1827年、叔父の蔵海の伝手を頼って清水寺成就院に入りました
1835年に成就院の住職となりました。
もともと清水寺成就院に住持する一祈祷僧である彼が、何故幕末の動乱に巻き込まれていったでしょう。
それは、彼が成就院に身をおいていたことが関与されています。
清水寺を統括支配しているのが興福寺であり、この興福寺とは、藤原氏すなわち近衛家の祈願寺なのです。
幕末当時、近衛忠熙は勤王運動家でありました。
島津氏の参勤交代の折には成就院などを介して京都を通過する際、近衛氏と接触する慣例があったといわれています。成就院は、薩摩と近衛家とのパイプ役ともいえます。このような文脈の中で、西郷隆盛との交流が始まったのでしょう。
しかし、政治運動の真っ只中、安政5年(1858)に斉彬公が急病でなくなってしまいました(一部では毒殺という説も)
西郷は尊敬する斉彬公がなくなったことにショックを受け、自分も後を追おうとしました。
しかし、月照が諭しました。
「残された者が、斉彬の考えをうけついではたらくのが恩にむくいるみちです。」
ここで、西郷は死を思いとどまり、国のために尽くす決心をしたのです。
しかし、時代は西郷と月照ら、勤王運動家を追い詰めていきます。
それは、大老井伊直弼による安政の大獄により、反政府運動をしている人々には重い刑がなされ、中には死刑にされる人もいました、当然、西郷と月照も、罪人として幕府に追われていたのでした。
〜西郷が立てた月照を匿う計画〜
幕府の探索の手から月照を守るため、西郷は月照を薩摩で匿うことを計画しました。西郷は月照と共に京を脱出し、下関に到着した後、月照の身柄を筑前博多近郊に住むの北条右門に託し、自分は、先に薩摩に戻ることにしました。これは、月照の薩摩入りの下工作をするためです。
しかし、西郷が出発した後、事態は急変してしまったのです。幕府が派遣した京都町奉行支配の目明し二人が、月照の後を追い、博多に潜入してきたのです。
このまま月照が博多にいたのでは危険と感じた北条は、月照を先に薩摩に潜入させるのが良いと考え、月照とその下僕を脱出させました。しかし、そうは難しいものではありません。月照らの力だけで薩摩に行けるはずがなく、誰か月照の供をして薩摩に潜入してくれる頼もしい人物が必要だと、北条は感じていました
。
〜天の助け!平野国臣〜
北条が求めていた人物。それは、平野国臣といいます。
「我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山」
鹿児島に来られた方は一度はこの歌を耳にしたことがあるかと思います。
雄大な桜島を象徴する素晴らしい歌です。なんと、この歌の作者こそ、筑前の平野国臣(ひらのくにおみ)なのです。
平野国臣も政治運動の志を共にしている侍でした。そして、奇抜な格好を好み、和歌も嗜み、笛を奏でる芸術家でもあった、快男児と風流人を併せ持った異例な男なのです。
平野と北条の間柄は親しく、また、平野は若い頃から京や江戸に出向く旅慣れた人物だったので、北条はこれほど月照の供に適した人物はいないと考えていました。
そして、北条が月照の薩摩入りに一番頭を悩ましていた時にふらりとやってきたものですから、こんな嬉しいことはありません。
北条は早速平野に全ての事情を話し、月照の供を頼みました。平野は二つ返事で応えました。
このように、平野という人物は、いついかなる時でも、清々しいほどの男気と勇気を発する人物でした。
当時の薩摩藩は独自の鎖国政策を行っており、関所の警備は厳重で他国人を全く受け入れませんでした。そんな中で正式な関所手形もない状態で引き受けたわけですから、まさに命懸けのことなのです。
平野の知恵と勇気で数々の困難を乗り越えた月照一行は、何とか野間之関所(現在の鹿児島県出水市野間之関所跡)につきます。
当然入国を拒否されてしまいました。
しかし、それでも諦めない平野はなんと、近辺で雇った船で、強引に薩摩領内に上陸しようと考えたのです。
船で薩摩に行くには、当時潮流が早く航海の難所と言われている「黒の瀬戸」と呼ばれる海峡を通らなければなりませんでした。
「一に玄海、二に千々石(平戸)、三に薩摩の黒の瀬戸」
と九州では近海の難所をこう呼んでいました。
このような難所を平野と月照は真夜中に命懸けで通ったのです。
このような苦労をしたにもかかわらず、月照と平野には大きな悲運が待ち受けていたのです。
〜西郷の下工作の結果は・・・〜
先行して薩摩に戻っていた西郷は、四方八方手を尽くし、藩政府に月照の保護を要求していたのですが、幕府の咎めを恐れた藩政府の態度は非常に冷たく、藩として月照の庇護を許可しようとしませんでした。
それでも西郷は諦めずに嘆願を続けていたのですが、藩政府は月照が平野に連れられて薩摩に入国したことを知ると、月照と平野を使者宿に隔離し、西郷を呼び出して、月照らを藩外に追放するよう命じたのです。西郷はその命令に憤りを感じましたが、藩の命令に背くわけにはいきません。西郷は月照と平野を引き連れ、一路日向に向けて鹿児島錦江湾の海に船を漕ぎ出しました。

舟中の平野、西郷、月照
船中では、これから待ち受ける月照の苦難を慰めるかのように、平野は笛を奏でていたと伝えられています。
「月照さぁ、そいなら・・・」西郷が目配せをすると、月照は静かに頷きました。安政5年(1858)11月16日の明け方近く、三船の沖でのことです。
平野の笛の音が鳴り響く中、船が錦江湾の花倉の沖合いを過ぎた時、西郷と月照は抱き合って錦江湾に身を投じました。
当時、薩摩から他国に出入りする関所は、薩摩路の野間関、大口の小川内関、日向高岡の去川関の3つがあり、《薩摩飛脚》という言葉に表現されるように、一度入れば生きては出られない、という意味ですが、近郷の郷士たちが集まってきては、関を出ようとするものをなぶり殺しにする習慣があったと伝えられています。したがって、月照の日向口追放とは、つまり《死》を意味していたわけで、西郷が入水したのは自分を信頼し薩摩路までついてきてくれた月照に対する西郷ができる、せめてもの義であったからでしょう。
ザブーン、という物凄い水音が鳴った瞬間、船室に居た平野はすぐに外に飛び出ると、西郷と月照がいないことに気付きました。
「船を止めろ〜!」
平野は船頭に向かって絶叫しました。平野とその船に同乗していた薩摩藩の足軽・坂下長右衛門(さかぐちちょうえもん)は、必死になって辺りを捜しまわりましたが、二人の姿は見えません。
その後、懸命な捜索が続き、数刻経った後、二人の体が突然海面に浮き上がってきました。平野らは二人を船に引き揚げ、花倉の浜辺へ急遽上陸し、二人を蘇生させるべく熱心な介抱を続けました。その結果、月照は絶命しましたが、西郷はすんでのところで息を吹き返したのでした。
月照の辞世の句
大君のためには何かをしからん
薩摩の追門(セト)に身は沈むとも
2006.9.3
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