西郷隆盛蘇生の家(史跡)(鹿児島市吉野町)[2006年09月03日(日)]

西郷隆盛蘇生の家
鹿児島県鹿児島市吉野町花倉バス停目の前駐車場:不明?

これは、鹿児島では知らない人はいない有名人、西郷隆盛が蘇生した家です。蘇生・・・そう、西郷隆盛は自殺をしようと錦江湾に身を投じたことがあり、その時にこの場所で手厚い看護を受けて息を吹き返したのです。
では何故このようなことが起きたのでしょうか。
当時、幕末時代の日本では、幕府に反対する人が次々出てきました。それは、通商条約の調印や将軍の後継ぎ問題などなど・・政治的なやり方があきらかにおかしい点が多かったからです。
西郷は、島津家28代藩主島津斉彬に仕え、参勤交代のお供をすることにより、学問や世の中の動きを教えてもらい、一流の人物とも知り合うなど、多くのことを学びました。
斉彬公は、幕府の政治についても反対派で、変えていかなければならないと考えており、もちろん西郷も同じ意見でした。その時に出会ったのが京都清水寺成就院の住職の月照でした。西郷は月照等と共に政治運動を行っていました。
しかし、安政5年(1858)に斉彬公が急病でなくなってしまいました(一部では毒殺という説も)
西郷は尊敬する斉彬公がなくなったことにショックを受け、自分も後を追おうとしました。
しかし、月照が諭しました。
「残された者が、斉彬の考えをうけついではたらくのが恩にむくいるみちです。」
ここで、西郷は死を思いとどまり、国のために尽くす決心をしたのです。
次第に幕府への反発は強まってきました。そこで、幕府は反対派を厳しく取り締まることになり、中には死刑にされる人もいました。これを「安政の大獄」といいます。
月照も危険人物とみなされ薩摩藩に西郷と共に逃げました。
しかし、斉彬公亡き後の薩摩藩は幕府をおそれ、日向へ連れて行くように命じました。これは「永送り」と言って途中で切り捨てるのです
。
そこで、西郷は月照と共に入水自殺することにしました。しかし、二人は引き上げられ、花倉の砂浜でたき火をたいて温め,坂下長右衛門の家で手厚い看護を受けました。そして、西郷だけが息を吹き返しました。これが,西郷隆盛蘇生の家です。月照は亡くなりましたが、大久保利通などによって手厚く南林寺の西郷家墓地に葬られました。月照の墓は南林寺の境内にあります。
そして、西郷は蘇生しましたが、西郷の忠義をよく知っている薩摩藩は、幕府に死を届け、西郷を菊池源吾と名乗らせ、奄美大島龍郷に流刑という処遇にしてかくまうのでした。

一人生き残ったことを知った西郷は、自らを土中の死骨と呼び、生涯恥としたということです。
安政の大獄による弾圧は井伊が1860年3月の桜田門外の変で暗殺された事により収束するのでした。
2006.9.2来訪
累計
今日
昨日





鹿児島のお店、HP等です
ドッグサロン(ペットの癒し、グルーミング等)のME&MY DOGです。自分のかわいいワンちゃんを是非連れて行って下さい♪



鹿児島関連のサイトを掲載します。希望のメールはこちらへ
他のブログの記事です
Blog Peopleに登録


