精矛神社(神社)(加治木町)[2006年11月02日(木)]

精矛神社
鹿児島県姶良郡加治木町日木山311TEL:0995-62-5716
御祭神 島津義弘(精矛厳健雄命)
HP 島津義弘公奉賛会
この神社は、島津17代義弘公を祀っています。
現在の宮司は加治木島津家13代当主である島津義秀公です。
野太刀自顕流も教えているそうです。 加治木島津家の墓

この場所は加治木駅から東へ行き、踏み切りをわたるとあります。
辺りは閑散としており、島津義弘公の武運を受けようにもこれほどまでに静寂なのは・・・

野太刀自顕流(のだちじげんりゅう)
一般にジゲンリュウといえば、示現流とう文字を連想します。
幕末では、新撰組の近藤勇も「薩摩の初太刀をはずせ」と言わしめたほどの一撃必殺剣
でありました。
しかし実は、薩摩には流儀の異なる2つのジゲンリュウが存在していたのです。
一つ目は御流儀としての「示現流兵法」
もう一つは「野太刀自顕流(薬丸流)」
示現流兵法は道場が藩内に東郷家1つのみで、通える者距離の関係上は城下に限られていました。
またこれは、江戸初期に薩摩藩士統合重位が参勤交代の折り、京都の天寧寺の善吉和尚から体得したものです。
一方、野太刀自顕流は地方に住む郷士達が学んだものの一つであります。 平安時代の伴兼行を始祖とする「野太刀の業」に端を発します。
桐野利秋も僅かな期間「野太刀自顕流」を学びました。彼は雨樋から水滴が地面に落ちるまでに三度刀を抜いて鞘に収めたといわれます。

串木野金山蔵の坑道の中に新しく創建された「薩摩開運神社」はこの神社精矛神社を分祀したもので、義弘の武運と金山の金運にあやかろうと創建されたそうです。

朝鮮から持ち帰った石臼と手洗鉢
椿窓寺(かんそうじ)の住職であった鳳山和尚が、文禄・慶長の役に陣層として従軍し、帰国の時船の下荷として持ち帰ったものです。征くときは兵士、武器、馬匹、兵糧を満載して船足を沈めて渡海しましたが、帰りは空船にも似ており、波荒い朝鮮海峡を渡るには、吃水が浅くて沈没の危険が考えられるため、船の底荷としたものでしょう。
はじめ、島津屋形の西の丸の庭においてありましたが、明治2年(1869)今の義弘公終焉の地の碑のあたりに、そして、大正7年(1918)現在地に移しました。
〜案内板より写し〜
この神社は、島津17代義弘公を祀っています。
義弘は天文4年(1535)、第15代貴久の次男として吹上の伊作亀山城で生まれ、幼少年期は、伊集院の一宇治城で育ちました。将軍足利義昭から、「義珍(よしたか)」と名前を賜り、後に義弘と改めました。
天文23年(1554)、大隅合戦と呼ばれる蒲生・祁答院・入来院の連合軍との戦が始まりました。義弘はこの時、重富・岩剣城の戦いを初陣とし、以降66歳までに五十数回の戦を経た天下の名将でした。特に関ヶ原の戦いでの適中突破「島津の退き口」はあまりにも有名です。
慶長12年(1607)、今の加治木高校・柁城小学校一帯に屋形を造って移り住み、元和12年(1607)、84歳でこの世をさるまで12年間加治木で仁政を施しました。
明治2年、終焉の地に神社を造営し、神号の精矛厳健雄命(クワシホコイズタケヲノミコト)から精矛神社としました。その後、大正7年(1918)10月1日、没後300年に当たり、現在地にあらたに造営遷座しました。
義弘は道徳や学問の奨励・産業振興などを行い、今でも「太鼓踊りやくも合戦・加治木饅頭は義人公に由来する」と言われるように広く敬愛され、毎年武道・郷土芸能などが奉納されています。
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