富隈城跡(歴史・史跡)(霧島市隼人)[2006年04月02日(日)]

富隈城跡
鹿児島県霧島市隼人町住吉町指定文化財史跡(平成6年3月1日)
富隈城は1595(文禄4)年に島津義久(16代目)によって築かれた城です。

丘の上は展望台になっています。
義久公は以後1604年に舞鶴城に移るまで在城していました。城域は石垣に囲まれ、南北250m、東西150mの長方形をしており、北側は30m程の丘。城の周囲に堀をめぐらせ、見次地区から引き水をしていたらしい(詳細は不明)

360度の絶景。北には霧島連山。南には桜島と錦江湾。
義久公がなぜここに築城したかというと、豊臣秀吉の島津征伐に敗れてしまい、降伏した意思を示すためです。(鹿児島の城は弟の義弘公に譲っています。)
普通、義久公といえば、後詰めの城を造るそうですが、これがないのも、降伏の意思があるよというのを理解いただくためだとか・・・

今は公園として、子供のいい遊び場です。
しかし、ただ移り住むっていうんじゃないのが、島津氏の凄いところで、在城10年間に、浜之市港(隼人港)の修築をはじめ、さまざまな事業を行ったそうです。この港は琉球貿易を始め、近代まで重要な役割を果たし、市場開設を奨励し定期市も開かれました。この市が現在の地名の由来にもなっています。
また、麓集落の整備も行われ、西側真考地区に残る武家屋敷跡や、犬追馬場、御厩(みくりや)などの小字名が、今も名残として残っています。
2006.3.31来訪
看板写し
富隈城は島津16代義久によっ築かれた城で、平地にあり、小山を本末代わりにした平山城です。この城は東西約150メートル、南北約250メートルの方形で西、東、北側に堀があったといわれ、現在は北と東側に堀の後が残っています。
城の造りは、天守閣がない館形式で城門も茅葺きであったということです。西側や東側には、野面積みという技法で詰まれた石垣が残っていますが、これは肥後八代の種山の石工たちが築いたものだと伝えられています。
義久は、文禄4年から慶長9年まであしかけ10年間ここに居住しました。義久が富隈に来たのは、豊臣秀吉の島津征伐に敗れ、降伏した意思を表すため、鹿児島の城を弟義弘の息子家久に譲り、富隈に隠居の形をとったためだといわれます。義久在城の間、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなどが相次ぎ日本は激動し、島津氏にとっても苦難の時代でした。義弘が関ヶ原で家康の本陣をつき、敵中突破してわずかの家臣と帰り着いて、兄と対面したのもこの富隈城でした。朝鮮出兵にも富隈衆が多数参戦しました。また秀吉の勘気にふれ、文禄元年(1592)薩摩の坊津に流された近衛信輔も、文禄5年許されて帰京の途中この城に立ち寄り、歌会や能楽等を行っています。
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